身体、この遠きもの
P176
身体の認識のされ方について
→「心」との対照によってではなく、「物」との対照において考えられるべきだと筆者は述べ ている。(l7「身体は…物質体であることは間違いないが、…他の物質体とはあまりに も異質な現れ方(直後に具体的説明)…」)
P177 l4〜
「身体は不透明なもので…存在はいわば消えている。」しかし、疲れ方や病気など、異常な状態においては「不透明な」「異物として」現れる。

P177 l12〜
身体の「奇妙な現れ方」の別の例。(「別の局面」)

「もつ」行為における身体のあり方
P178→道具(l2媒体、器官)という意識の外側の存在として自由に扱うことができる

「痛み」や「倦怠」を伴う時の身体のあり方
→自由にできない、抗えない
P178 l5
「神秘」…合理的にはわかり得ない現象や作用を指す(比喩的)表現。
P178 l5
「身体一般というのは医学研究者にとっては存在しても…個人には存在しない」
→「身体」という概念は、常に主体を想定されるものであり、「一般」視という個々の主  体と切り離した考えは、普通(特定の考えにおいては成り立つ(というか、成り立たせ られる)場合もある→「医学」などの学術的扱いが例となっている。)は成り立たないと いうこと。(研究対象としての客体性を成り立たせるため、抽象(妥協)した結果が「身 体一般」になる。)
P178 l15〜
「身体」の占める、(空間的時間的)領域・範囲について
→(P180 l9)「身体の存在を、今、ここという経験の中心に限定…物質的な身体の  占める空間に限定することは…身体についての抽象的な考え方…である」
抽象的
 身体というものは、主体をその前提的本質として持つものであり、主体の現実的なあり方(空間・時間によって規定できないことなど)を切り捨てた考えは、むしろ妥協(P180 l3「大づかみにしか言えない」)された抽象だということ。
P180 l12〜
身体の認識・知覚のされ方
(入浴や着衣など)皮膚を刺激したり囲ったりする行為には、(P182 l12)「<像>としてのとりとめのない身体」を触覚的に補強したいという欲求が関わっていると筆者は考えている。
<像>として〜補強
 P178「可塑的」に主体とかかわり、(P180)「抽象的」にしか把握できないことによると言える。
P183
「わたし(主体)と身体との関係」の「もつれ」は、身体が知覚できる「物質体」としてのあり方と、想像される「像」としてのあり方との関係を不安定にするものだからである。

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