待ち伏せ
 九歳のときに、娘のキャスリーンが私に尋ねた。お父さんは人を殺したことがあるのかと。 彼女はその戦争について知っていたし、私が兵隊であったことも知っていた。
「お父さんって戦争の話ばっかり書いてるじゃない。」と娘は言った。「だからだれか殺したはずだって思うの。」 私は困ってしまった。でも私はそうするのが正しいと思うことをやった。つまり「まさか、殺してなんかいないよ。」 と言って、娘を膝の上にのせて、しばらく抱いていたのだ。私はまたいつか娘が同じ質問をしてくれたらいいなと 思う。しかしここでは私は娘をきちんとした成人であると仮定して扱ってみたい。私は実際に起こったことを、あるいは 私の記憶している起こったことを彼女にすっかり話してしまいたい。君が正しかったんだよ、と言おう。 そう、それこそが私が戦争の話を書きつづけている理由なのだ。
 彼は背の低いやせた男だった。年は二十歳前後だった。私は彼が怖かった――というか何かが怖かった。 そして彼がその小道を歩いて私の前を横切ったときに、私は手榴弾を投げ、それは彼の足元で爆発し、彼を殺した。

 あるいは、もっと前から話そう。
 真夜中ちょっと過ぎに、我々はミケ郊外の待ち伏せ地点に向かった。小隊全員がそこにそろって、道沿いに 密生した茂みの中に展開していた。でも五時間のあいだまったく何も起こらなかった。我々は二人一組でチームを 組んで行動していた。一人が寝ているあいだ、もう一人が警戒にあたっていた。それを二時間交代でやった。 カイオワが私を揺すって起こして、最後の見張りにつかせたときは、あたりはまだ暗かったと記憶している。 その夜は靄がかかって、暑かった。最初のうち、私はまだぼうっとしていた。どっちがどっちかさえわからなかった。 もそもそと手さぐりでヘルメットと武器を探しもとめた。手をのばして三個の手榴弾をみつけ、それを自分の 前に一列に並べた。すぐに投げられるようにピンは真っすぐになっていた。 そしてそれから半時間ばかり、私はそこに膝をついてじっと待った。ひとつひとつ細かい段階を踏むように、夜明けはやってきた。光は細い筋のようになって、霧のあいだからこぼれてきた。茂みの中の私の位置からは、道の十メートルから十五メートル先くらいまでが見えた。蚊の攻撃は激しかった。私は蚊をたたきながら、カイオワを起こして虫よけ薬をもらおうかどうしようか迷ったことを覚えている。でもそれは悪いと思ってやめた。それからふと目を上げると、霧の中からその若者が現れるのが見えたのだ。彼は黒服を着て、ゴムのサンダルを履いて、灰色の弾薬帯をかけていた。彼はわずかに猫背気味に歩いていた。首は、まるで何かに耳を澄ませているかのように、横に傾いていた。彼はくつろいでいるように見えた。彼は片手に武器を持っていた。銃口は下に向けられていた。とくに急ぐ様子もなく、彼は道の真ん中を歩いていた。音はまったく聞こえなかった。音を聞いた記憶はまったくない。彼は何かしら朝霧の一部であるように見えた。あるいは私自身のイマジネーションの一部であるみたいに。しかし私の胃の感触にははっきりとしたリアリティーがあった。私はすでに手榴弾のピンを抜いていた。私は腰を少し浮かせた。私は条件反射的にそうしたのだ。私はその若者を憎んでいたわけではなかった。私は彼のことを敵として考えたわけではなかった。私はモラルや、政治学や、あるいは軍事的責務を考慮したわけではなかった。私はしゃがんで、頭を低くしていた。胃の中からこみあげてくるものを、私はなんとか飲みこもうとした。それはレモネードみたいな味がした。フルーツっぽくて、酸っぱかった。私は怖くてたまらなかった。人を殺すということについてとくに考えなかった。この手榴弾はあいつをどこかに追いやってくれるのだ。あいつを消し去ってくれるのだ。そして私は身を後ろにそらせた。頭の中がからっぽになり、それからまたいっぱいになるのが感じられた。さあ投げるんだと自分に言いきかせる前に、私はもうすでに手榴弾を投げてしまっていた。茂みは密生していたので、私はそれを、相手に向かってまっすぐではなくて、上の方にひょいと放りあげなくてはならなかった。私は覚えている。それが私の頭上で凍りついたように一瞬停止したことを。まるでカメラのシャッターがかしゃっと鳴ったみたいだった。そして私は覚えている。自分がさっと頭を下げて、息を詰め、霧の小さな一筋が地表からふっと立ちのぼるのを見たことを。手榴弾は一度跳ねて、それから道の上をごろごろと転がった。私にはその音は聞こえなかった。しかし音はしたのに違いない。というのはその若者は自分の武器を下に落として、駆け出したから。さっと素早く二歩か三歩、しかし彼はそこで躊躇した。右の方をくるりと向いて、そこに落ちている手榴弾をちらっと見下ろし、頭をカヴァーしようとした。でもしなかった。そのとき私はふと思った、この男は今死のうとしているんだ、と。私は彼に警告を与えたかった。手榴弾はぽんと爆ぜるような音を立てた。ソフトな音ではないが、かといって大きな音でもない。それは私が予想した音とは違っていた。土ぼこりが舞い、煙も出た。小さな白い吹き出しのような煙だった。そしてその青年はまるで目に見えないワイヤにひっぱられるみたいに、上の方に向かって体をねじった。彼は背中から地面に落ちた。彼のゴムのサンダルは吹き飛ばされた。風はなかった。彼は小道の真ん中に横たわった。彼の右脚は体の下に折り畳まれるように潜りこんでいた。彼の右目は閉じていた。左目は星の形をした大きな穴になっていた。
 それは生きるか死ぬかの瀬戸際ではなかった。そこには危険らしい危険はなかった。何もしなければ、若者はおそらく何事もなくそのまま通り過ぎてしまったことだろう。そしていつもそんな具合にことは運んだだろう。
 あとでカイオワが私を説得しようと試みたことを覚えている。あの男はどのみち死んだだろうということを。彼らは私に言った。あれは正当な殺しなんだ、あの男は兵隊だったし、これは戦争なんだ。お前はもっとしゃんとしなくちゃいけない。いつまでも死体なんか眺めてないで、自分にこう尋ねるんだ、もし立場が逆だったらこの死んだ男はどう行動しただろう、と。
 そんなのはどうでもいいことだった。それらの言葉はあまりにも複雑で、あまりにも抽象的すぎるように私には思えた。私にできることはその若者の死体というひとつの事実をただぼんやりと見つめていることだけだった。

 今でもまだ、私はそれを整理し終えてはいない。あるときにはあれはしかたなかったんだと思う。あるときにはそうは思えない。普通に人生を送っているときには、私はそのことをあれこれ考えたりしないようにしている。でもときどき、新聞を読んでいたり、部屋の中に一人で座っていたりするようなときに、私はふと目を上げて、朝霧の中からその若者が現れるのを見ることがある。彼が私の方に歩いてくるのが見える。彼の背中はわずかに猫背気味である。彼の頭は片方にかしいでいる。私の前数ヤードのところを彼は歩き過ぎていく。そして何かを考えてふっとほほえむ。それから道を歩きつづけ、そのまま霧の中に消えていく。


ティム・オブライエン作
村上春樹 訳

Page Top



br→
main_box