東アジアの激動
Point1 大まかな流れを覚えよう!
後金(満州)…1616年、女真族ヌルハチが建国。
↓
清 に改称。明(漢民族)×李自成の乱
女真族による征服王朝
中国化政策⇔辮髪を強要

世界中の銀が中国へ流入→西洋からはものを買わない外国貿易の変化
@片貿易…清は港を広州一港に限り、商人も公行(特許商人の組合)に限定。
 清は茶、生糸、絹織物、陶磁器を輸出。輸入は少なく輸出超過。
Aイギリスの貿易改善の要求…マカートニーやアマーストを使節として派遣
 し、開港場の増加や公行の廃止を含めた制限貿易撤廃を要求。
→清朝は拒否。
B三角貿易に移行…イギリスは、本国産の綿織物をインドに輸出、インド産
 のアヘンを中国へ密輸、中国産の茶、絹などを輸入するようにした。この
 アヘン貿易は清の輸入超過となって銀が中国から流出。(銀の回収)

アヘン戦争(1840〜1842)
@背景…東インド会社の中国貿易独占の廃止を機に、アヘンの密輸が増加
→銀の国外流出とアヘンの害毒。イギリス産業資本家は開港に期待。
A経過…広州に派遣された欽差大臣林則徐がアヘン密輸を厳禁し、アヘンを
 没収廃棄→イギリスが艦隊を派遣し開戦
→広州を占領したイギリス軍に対し、民衆は平英団を組織して対抗するが、
 清朝は屈服。
B南京条約(1842)…清朝は香港をイギリスに割譲し、五港の開港・公行の廃
 止・賠償金支払いを約す。(五港…広州、福州、厦門、寧波、上海)
C対英追加条約(1843)…領事裁判権の承認、関税自主権の喪失、片務的な
 最恵国待遇(他国が良い条件で条約を結んだら協議することなく英にも認
 める)→不平等条約
→思ったほど貿易は伸びなかった。

アロー戦争(1856〜1860)
@背景…南京条約締結後(アヘン貿易は拡大)も、中国の商品市場はイギリス
 の期待通りには拡大しなかった。
A経過…イギリスはアロー号事件をきっかけにフランスを誘って(宣教師殺
 害事件が口実)清朝と開戦→英仏連合軍は広州を占領し、天津に迫る
→1858年、天津条約締結
→1859年清朝は条約の批准を実力で拒否→再び開戦
→英仏の連合軍の北京占領(円明園を略奪・破壊)
→ロシアの調停によって1860年北京条約を締結。
B北京条約(1860)…外国公使の北京駐在、キリスト教布教の自由、貿易や内
 地旅行の自由、天津などの11港を開港、九竜半島南部を英へ割譲した。ロ
 シアは調停の報酬として沿海州を獲得。

Point2 用語集

Page Top



br→
main_box